「「あっ……」」
私と中松は、ほぼ同時に驚きの声をあげ、一斉に声の主へと顔を向ける。
「これはこれは一矢様、お帰りに気づかず、大変失礼いたしました」
珍しく中松が慌てふためいた様子で深く頭を下げた。その姿は日頃の冷静沈着な態度からは想像もつかないほど狼狽しており――ふふ、内心で思わずニヤリとしてしまった。
こんなふうに中松が動揺するところを見るのは初めて。
主人(ニセだけど)に詫びるその姿は、まさに嫁(ニセだけど)としてはちょっぴり愉快だった。「一矢様、インターフォンはお鳴らしにならなかったのでしょうか? 玄関にてお出迎えができず、私としたことが大変申し訳ございません」
「いや、インターフォンは鳴らしていない。我が“妻”がどのように修行を積んでいるのか、その様子を少しばかり見てみたくなってな。セキュリティを自ら解除して、静かに入ってきた」
「左様でございましたか。まさかそのようなお考えとは露知らず……。一矢様のご意向を先に確認すべきでした。改めて、深くお詫び申し上げます」
中松はすぐさま態度を改め、完璧にスマートな所作で再び頭を下げた。そして、私の方にチラリと視線を送る。無言で訴えかけているその眼差しに気づき、私は慌てて一歩前に出た。
「お、お帰りなさいませ、一矢様」 挨拶が少し遅れてしまった。普段の私なら、ゆるめのTシャツに気楽なトップス、下はゴムの入った楽なズボンというのが定番スタイル。お洒落をするのは家族で外食するときか、仲の良い友人たちと街に繰り出すときくらいだった。そんな私が今身につけているのは、薄いピンク色の上品なワンピース。襟元と袖には繊細なレースが施されており、丈は膝下まである。全長はおよそ百二十センチほど。柔らかく広がるふんわりとしたフォルムは、まさに“お嬢様”そのものの装いだ。
もちろん、この衣装は中松が私の“ニセ嫁修行”の一環として用意してくれたもの。一矢の趣味なのか、それとも中松の趣味なのか、その真相は不明。でも、どう見ても高級ブランドの一着であることだけは確かで、その価格は……きっと恐ろしいほど。
私は背筋をピンと伸ばし、コルセットで締め上げたお腹にさらに力を込めるようにして、その場に立った。ニセ嫁として、ここまで積み重ねてきた努力の証を――今ここで、ニセ夫にしっかりと見せなければ。
「……ほう。見違えたな」
口元をほんのりと上げて、一矢が笑う。それはどこか不敵で、挑むようで、なのにどうしようもなく色気を纏った微笑みだった。
その一瞬に、心臓がドクンと跳ねる。 あああーっ。旦那様(ニセ)……やっぱりカッコいい――っ!! 「とはいえ、私の前でそのような堅苦しい言葉遣いは不要だ。伊織、お前はいつも通りでいい。私が帰宅したとき、お前が出迎えてくれる。それが、今の私にとって何より幸せなことだ」「ええ、わかったわ」
私も思わず微笑み返した。けれど次の瞬間――
「ところで、中松と何やら楽しげに談笑していたようだが? 場合によっては……浮気とみなすぞ」
「えぇっ!? 鬼中松なんかと浮気だなんて、冗談じゃないわっ!! あれは、厳しいご鞭撻に対する、嫌味と皮肉の応酬をしていただけでっ!」
衝動的に声を荒げてしまい、あれほど練習してきた淑女らしい振る舞いも丁寧な言葉遣いも、どこかへ吹っ飛んでしまった。
――どうやら私は、根っからの上品なレディーには向いていないらしい。
「伊織様、“鬼”という表現は、少々度が過ぎております。お言葉遣いも、もう少し淑女らしく……改めていただかないと……」中松のこめかみがピクピクと引きつっていた。
しかし――私は一刀両断!
「主人がいいって言ったのよっ! 文句があるなら、一矢に言いなさいよっ! ね? 一矢っ!」
満面の笑みで助けを求めるように一矢を見上げると、彼はお腹を抱えて笑い転げていた。
「――あーっはっはっは! 傑作だな!」
それは、見たこともないほど楽しそうな、一矢の笑顔だった。きゃあああ――っ!!
どうしてそんなに素敵なの、一矢!? 笑顔に胸がときめき、心臓が破裂しそうなほど高鳴った。笑い終えた一矢は、ふっと表情を整え、少しだけ柔らかい声で言った。「伊織、ただいま」
「あ、お、お帰りなさいませっ!」
たるみかけた背筋を慌てて正し、姿勢を取り戻す。「先ほどはみっともない言葉遣いをしてしまって、ごめんなさい。これからは、もう少し上品なレディーらしく振る舞えるよう、努力いたしますわ……でも、中松の指導があまりに過酷で。彼、まさにスーパー鬼ですもの」
うん。あまりに辛くなったら、次は遠慮なく一矢に中松の鬼っぷりを訴えてやろう――と、私は心に決めた。
「玄関先でこんなに笑ったのも、中松の怒り出しそうな顔を見たのも、正直これが初めてだ。あいつはいつだって涼しい顔をしていて、感情を滅多に表に出さないからな。だが、今の様子を見ていれば一目瞭然。伊織には随分と手を焼いているのが、よくわかる」 一矢はそう言って、ふっと優しい微笑みを浮かべた。 細く切れ長の目がほんの少し細められ、整った顔立ちに柔らかい光が差し込んだように見えた――まるで初夏の風のような、爽やかで心地よい笑顔。 思えば私たちは長い付き合いだけれど、こんな穏やかな表情を一矢が見せるのは稀だった。いつも気難しい顔をしていることが多いから。 それは彼の取り巻く環境のせいだってわかっている。素直に笑ったり喜んだりできなかったから、一矢はめちゃくちゃにひねくれてしまった。「うん、いいな。……悪くない」 唐突に一矢が私をまっすぐに見つめ、ぽつりと呟いた。「えっ? な、なにが……? あっ、もしかしてこの服のこと……? その……鬼、じゃなくて中松が用意してくれたの。私、こういうお嬢様みたいなワンピースは初めてで、ちょっと落ち着かないけど……でも、サイズがぴったりだったから、自分でも驚いてるの」 慌てて言い訳のように口にすると、一矢の表情がふっと翳った。「伊織。……主人が帰ってきたばかりだというのに、ほかの男の話をするのは控えた方がいい」
「「あっ……」」 私と中松は、ほぼ同時に驚きの声をあげ、一斉に声の主へと顔を向ける。 「これはこれは一矢様、お帰りに気づかず、大変失礼いたしました」 珍しく中松が慌てふためいた様子で深く頭を下げた。その姿は日頃の冷静沈着な態度からは想像もつかないほど狼狽しており――ふふ、内心で思わずニヤリとしてしまった。 こんなふうに中松が動揺するところを見るのは初めて。 主人(ニセだけど)に詫びるその姿は、まさに嫁(ニセだけど)としてはちょっぴり愉快だった。「一矢様、インターフォンはお鳴らしにならなかったのでしょうか? 玄関にてお出迎えができず、私としたことが大変申し訳ございません」「いや、インターフォンは鳴らしていない。我が“妻”がどのように修行を積んでいるのか、その様子を少しばかり見てみたくなってな。セキュリティを自ら解除して、静かに入ってきた」「左様でございましたか。まさかそのようなお考えとは露知らず……。一矢様のご意向を先に確認すべきでした。改めて、深くお詫び申し上げます」 中松はすぐさま態度を改め、完璧にスマートな所作で再び頭を下げた。そして、私の方にチラリと視線を送る。無言で訴えかけているその眼差しに気づき、私は慌てて一歩前に出た。 「お、お帰りなさいませ、一矢様」 挨拶が少し遅れてしまった。普段の私なら、ゆるめのTシャツに気楽なトップス、下はゴムの入った楽なズボンというのが定番スタイル。お洒落をするのは家族で外食するときか、仲の良い友人たちと街に繰り出すときくらいだった。 そんな私が今身につけているのは、薄いピンク色の上品なワンピース。襟元と袖には繊細なレースが施されており、丈は膝下まである。全長はおよそ百二十センチほど。柔らかく広がるふんわりとしたフォルムは、まさに“お嬢様”そのものの装いだ。 もちろん、この衣装は中松が私の“ニセ嫁修行”の一環として用意してくれたもの。一矢の
あれから、いわゆる“ニセ嫁修行”なるものを懸命にこなしていたのだけれど――すでに心身ともに限界を迎えつつある。全身に疲労がまとわりついて離れず、まさに疲労困憊の極みに達していた。体力的にも精神的にも限界。もう無理。鬼のような修行に音を上げそうだった。 修行初日だというのに、この仕打ち。気力はあったはずなのに、始まってみれば予想を遥かに超える過酷さ。想像していたよりも何倍もキツすぎた。いきなり心が折れかけている自分に情けなさを覚える。 きつく締め付けられたコルセットのおかげで、辛うじて姿勢は保たれていたものの――その苦しさは想像を絶していた。息を吸うだけでも胸が締めつけられ、少しでも姿勢が乱れようものなら、すぐさま“鬼”中松の冷たい嫌味が容赦なく飛んでくる。まるで呼吸する隙さえ与えてもらえない。油断なんて、もってのほか。片時も気を抜けない、まさに戦場のような修行時間だった。 テーブルマナーに始まり、話し方や言葉遣い、日常の所作や立ち居振る舞いに至るまで――とにかく全てにおいてダメ出しの嵐。なにをしても「その程度では駄目です」「おやめください」「やり直しでございます」とピシャリ。心が何度折れかけたかわからない。それでも必死に食らいついたが、まともにひとつとして修正できぬまま、とうとう午後七時を迎えてしまった。 ようやく、“ニセ嫁修行”の一日目が強制終了の運びとなりました。 ……もう、限界。体はガチガチ、お腹はぺこぺこ。空腹で倒れそう。 そんな私の前に、またしても“あの男(オニ)”が現れる。「そろそろ一矢様がお帰りになるお時間でございます。早速、お出迎えのご準備をお願いいたします。くれぐれも、失敗は赦しませんよ」 ひいぃぃ……。まただ。出た、鬼中松。 彼はまるで鬼ヶ島から遣わされた鬼将軍。こっちは疲れて瀕死状態なのに、その無慈悲な通告はいつも通り冷たく鋭い。心の
グリーンバンブーの営業時間は、11時〜15時がランチタイム、そして17時〜20時がディナータイムだ。「中松」 扉を開けると、案の定すぐ傍で待機していた。「五時からお店なんだけど、戻ってもいい?」「婚約披露パーティーまでの期間、伊織様の夜勤は三成家での修行とさせていただきます。緑竹様からも許可を得ております。朝は七時半、午後は三時にお迎えいたします」 つまり私は、午前中の短時間だけグリーンバンブーで働き、午後からは三成家で“ニセ嫁修行”に専念するというわけだ。 付け焼刃では間に合わないと判断されたのだろう。元が元だけに。だからとにかく令嬢修行をしろ、と。「それ、先に言ってくれない? 引継ぎもあるのに」「でしたら、お店に電話なさいますか?」「ええ。今日は琥太郎に頼むわ。土曜日だし、きっと焼き場に入れるはず」「どうぞ。終わりましたらスマートフォンを返却ください。三成家にいらっしゃる間、通信機器はお預かりさせていただきます。必要な時はお申し付けください」 スマホを返してもらい、早速琥太郎に連絡を取ると、すぐに出てくれた。
自転車で五分もかからない距離をわざわざ車で送迎されて三成家に到着した。本家に比べれば小さな屋敷とはいえ、それでも十分に広くてまるで小さな城のような家。 広大な敷地に、一矢のためだけに建てられたという邸宅。中松もここに住み込んでいて、コックをはじめとする数名の使用人が出入りしている。広々としたゲストルームまで備えられ、かくれんぼでもできそうな空間。無駄な調度品は一切なく、白を基調にした上品な造りに、立派な門構え。敷地内には、一矢所有の高級車が二台、そして中松が使う送迎用リムジンが一台、計三台が並び、それでもまだ余裕があるほどの庭に、美しく手入れされた緑が広がっている。 一階が洋食店舗、狭い二階と三階が住居。大家族で暮らす我が家とは、まるで別世界のようだ。 それにしても――初恋の相手がこれほどまでに厄介な存在だったとは思わなかった。 身分差がある恋だとわかっていたけれど、まさか“ニセ嫁”としてこの家に入ることになるなんて、当時は想像すらしていなかった。 でも、これはチャンス! 一矢の本妻になれる可能性が、ほんの少しでもあるのなら――。 グリーンバンブーで働き始めてからというもの、ここを訪れる機会は少なくなっていた。久しぶりに足を踏み入れる豪邸に、思わず背筋を正して「お邪魔いたします」と丁寧に挨拶した。 磨き上げられた大理石の床。石の種類も名前も知らないけれど、高価なことは素人目にも分かる。廊下や部屋、階段に至るまで、どこを見ても隙のない美しさ。天井か
「中松。送ってもらわなくてもいいよ。自分で帰れるし」「いけません。仮にも三成家の“ご婦人”となるお方が、自転車通勤などもってのほか。ご近所様の目もございます」「……でも、その自転車で買い出しにも行くんだけど。置いて帰ると困るな」「後ほど店の方へお届けいたします。では参りましょう。午後三時、営業時間終了に合わせて再度迎えに上がります。よろしいですね」「……はあ」「姿勢が崩れております! しゃきっとなさってください!」 最後の最後まで、姿勢チェックは続く――中松、鬼ぃぃ……!! 先を歩く中松の背中に向かって――こっそり舌を出した。 鬼中松に店まで送ってもらい、到着するや否や制服に着替え、開店と同時にグリーンバンブーの厨房に立つ。「聞いたよー、いおちゃん。イチのヤツと結婚するんだって?」 声をかけてきたのは、田村銀次郎――通称ギンさん。(……“偽装”だけどね) ギンさんは私が生まれる前から店で働いているベテランの料理人。幼い頃、我が家に入り浸っていた一矢のこともよく知っていて、家族のような存在だ。 和食も洋食も器用にこなし、特にまかない飯のセンスは抜群。五十五歳、痩せ型、背丈は平均的。白髪が増えてきたけれど、身だしなみは常に整っていて、気さくで優しい雰囲気の“理想の職人おじさん”。 持ち場は特に決まっていない。焼き場でも揚場でも、どこでもこなせる万能タイプ。料理長は父だけど、実質的にはギンさんが副料理長のような立ち位置だ。 グリーンバンブーは小さな洋食屋だが、その分だけチームワークは強い。厨房中央にある揚場が要となり、その横に焼き場、デシャップ(配膳)に一人、洗い場も一人。そしてホールは、たった一人で回すのが基本スタイル。 24席の客席を限られた人数で切り盛りする、ハードな現場だけれど――そのぶん、腕の立つスタッフが揃っている。創業以来、味も価格も変えずに守ってきた。無駄を省き、そのぶん料理に全力を注ぐ。それがこの店のやり方だ。 私はそんな環境の中で育ち、父の背中を見てきた。「いつか、父を超える料理人になりたい」 それが私の夢であり、当然の未来だった。 ようやく焼き場を任されるようになって、今が大事な成長期。だからこそ、店を休むわけにはいかない。今日も気を引き締めて臨む。 とはいえ……料理修行だけでなく、“ニセ嫁修